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夜を飲み込む


※ワンドロのお題。一時間






「今日は寝ない」とどちらかが言った。その言葉が、自分のものだったのかそれとも相手のものだったのかは二人とも思い出せないでいる。午前四時の窓の外は暗い。朝日が昇るまではまだもうしばらく時間がいるだろう。
ぺら、と紙を捲る音がした。福富がそちらに目をやると、座布団を尻の下に敷いてフローリングに座りこんだ荒北が雑誌を開いているのが見えた。一瞬その頭がぐらりと揺らいだのは、きっと舟を漕いだからだろう。彼は身体を完全にベッドの方に預けていて、ひどく首に負担のかかりそうな体勢でいる。ベッドに寝転がっている福富が隣に来たらいいんじゃないか、と何度か言ったものの「ベッド行ったらたぶん寝る」と言うばかりでその位置から動こうとしないのだ。荒北は時々よくわからないことをする、と福富は内心思っている。そんな辛そうな姿勢でいるならいっそ諦めればいいだろうとそう心の中で呟いてみるが、だがしかしそれを口にも出せない。それがどうしてなのかは福富自身にも、そして荒北にもわからないのだった。枕を背もたれにして、福富は荒北のつむじばかりを見つめている。手に持っている文庫本は、もうずいぶん前から一ページも捲られてはいない。

「アア、ねっみい」
荒北はそう言って、眠気を振り払うように首を振った。ぐっと真上に両手を持ち上げて、背伸びをする。顎を上げて、思い切り首を曲げた時荒北の目が福富の方を見た。福ちゃん寝てねえだろうな、と荒北が言ったのに福富が頷くと、彼は満足げに目を細める。
「眠いか」
「もう五時前だからなァ」
「少し寝たらどうだ。明日も授業はあるぞ」
「部活ねえからいいんだよ別に」
ねっみい、と荒北はまた言った。彼は首を傾けて頭をベッドに預けると、そのままの姿勢で大あくびをする。手のひらで目を擦りながら、呻くような声を立てる。彼が膝を崩した拍子に、太腿に乗せていた雑誌が滑り落ちていった。

眠い眠いと言いながらも荒北はまだ寝る気はないようだった。
そして福富にも、そんな気分はなかった。今日荒北のことを自分の部屋へ呼んだのは福富で、本当なら彼に言おうとしていたことがあったからだ。
たった一言である。文字数にするなら二文字。言ってしまえばきっと一秒足らずで終わってしまうような短い単語だ。今までずっと言い損ねてきたその言葉を彼に言うために福富は荒北を呼んだのだが、しかしなかなかそれを言い出せずにいる。あと三十分経ったら言おう。荒北があの雑誌を読み終えたら言おう。この本の、この章が終わったら。それを繰り返している間にいつの間にか時間はどんどん過ぎていった。もどかしい、と思いはしてもそれを言えないのがどうしてなのかも福富にはわからない。口に出そうとすれば舌がもつれる。喉が震えて言えなくなってしまう。

福富はベッドから足を下ろして、机の方へ向かっていく。脇を抜けるとき荒北が一瞬こちらを見たのにどきりとしたのは、自分の心の中が読まれてしまっていないか不安になったからだ。今から口にしようとしている言葉だということは自分でもわかっているのに、だがこれを相手に悟られるのはどうしても気が引けた。これがあんまりいい感情ではないと彼は思っているのだ。同性の友人でチームメイトで、そして自分のアシストである彼に対して向けるようなものではない。そう彼は自覚している。だがそれでもどうしてだか伝えなければいけないという責任感めいたものも同時にそこにあるから厄介なのだ。

机の上に載っている缶を手に取る。まだ封の切られていないコーヒーの缶には「ブラック」という文字がでかでかとのっていた。プルタブを引いてそれを開けると、途端にコーヒー独特の香ばしいニオイが鼻をつく。一瞬それにためらって、まじまじと缶の中を彼は覗き込む。真っ黒な液体が、小さな波を立てているのが見えた。福富はコーヒーが飲めない。第一に苦いものが得意ではないのと、それと彼には今一つコーヒーのおいしさがわからないからという理由がそこにはある。それでも彼が今日コーヒーを、しかもわざわざ風味と苦みの強いものを選んだのは、それに対して味だとかそういったもの以外の効果を望んだからだ。彼はまだ、寝ないつもりでいる。


「今この寮で起きてんのオレらだけだろうなァ」
缶に口をつけようとしたその時、荒北がそう言った。福富がそちらを向くと、荒北は眠そうに目を瞬かせながらゆっくりと身体を起こしていた。立ち上がる。福富がいる方に彼は近付いてきて、一歩分の距離を開けて立ち止まった。

「福ちゃんが缶コーヒー飲むの初めて見た」
「……オレも、初めて買った」
福富がそう言うと、けらけらと荒北は笑った。子供舌のくせに、と彼が言ったのに福富が少しむきになって言い返すと、さらにその声は大きくなる。
「福ちゃん、それ飲めんのォ?」
「飲める」
「ホントかよ」
からかうような口調だ。子供扱いするな、と福富が言っても荒北は知らぬふりをしている。目を細めて笑っている男を見つめながら、オレがどんな気でいるかも知らないで、と福富はなんだかそれが憎くなってしまう。

これを飲みきったらきっと言おう。福富はそう思って、手に持っている缶を少し揺らした。ちゃぷんと缶の中で黒々とした液体が波打つ。
コーヒーを飲もうと缶を持ち上げる。だがそれは、彼の口に届く前に横からさらわれてしまった。
驚いて視線をそちらに向けると、荒北が小ぶりな缶を傾けているのが見える。静かな部屋にごく、ごく、と彼が液体を飲み下す音がする。喉仏が上下するのを見つめていると、飲み終わったらしい荒北がこちらを見て、笑いながらほとんど中身の残っていない缶をこちらへ押し付けてくる。缶を振ってみると、一口ぶんあるかないかぐらいの量だけ残されているのがわかった。どうしてこんなことを、と福富が彼の方を見ると、荒北はその瞬間にぱっと顔を背けて別の方向を見た。

「五時」と荒北が言う。もうすぐ日昇るなァ、と独り言のように口にして、それから荒北は時計に向けていた視線を福富の方に戻す。
「眠いか、福ちゃん」
荒北はそう言って福富の目を覗き込んだ。その瞬間、福富は「今日は寝ない」といったのが自分だったことを思い出し、そうしてそれと同時に、荒北がどうして頑なに寝ようとしなかったのかを理解した。
「もうずいぶん待っただろ」
荒北はそう言った。
「寝かせてくれよ、福ちゃん」
たった一言だ。言っちまえ。荒北はそう言うと、福富の手元をちらりと見てからまた笑った。
福富は視線を逸らして、さっきの荒北と同じように壁にかかった時計を見た。五時。もうすぐ朝が来る。確かにずいぶん待たせたようだ。
彼は大きく一つだけ深呼吸をすると、それから一気に缶を煽る。口の中いっぱいに広がった味はひどく苦いものだった。それを飲み下す彼の視線の先には、次に彼が口を開くのを今か今かと待っている男がいる。




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